2009年3月16日月曜日

外人嫌い、ゼノフォービア


二百数十年にわたって徳川将軍が権力の座にあり、日本国内に戦争もない平和が続いた江戸時代は、非常にユニークな時代だ。十返舎一九の書いた『東海道中膝栗毛』にも描かれているように、街道は国中を貫き、お上の威厳が隅々までよく行き届き、女子供も安心して旅の出来る
代だった。しかしペリー提督の黒船を見てから、たった15年ほどでそんな時代が一変し、政権が入れ替わり、世相もすっかり変わり、日本中が文明開化へと突進し始めたわけだから、誠にすさまじいものだった。

こんな変化を演出した主要因は、外交関係に端を発する政変であるが、その政変に至った重要要因の一つが、孝明天皇の外人嫌いから出る個性の強さだろう。

「外人嫌い」は英語で「Xenophobia」というが、こんな言葉が英語にある事実をを見ても、外人嫌いは世界的に存在する証拠だ。そういう意味で、孝明天皇は特別変わった人物でもなかった訳だろう。しかし天皇という立場が、これ程すさまじい変化を作る要因になったのだ。

自分の父親以上にも年長の関白・鷹司政通の重圧を感じ、面と向かえば自分の思うことも言えないとこぼしていた孝明天皇も、外人嫌いから出る使命感が、夷人が日本国内に入ってくる事は「神州の瑕瑾」とまで言わせ、にがての関白・鷹司政通をさえ落飾にまで追い詰めるほどの行動に出た。その外人嫌いが、如何に強く徹底したものだったかが分かる話だ。

ペリー提督が来た時に描かれた似顔絵の中には、当時、夷人は禽獣のごとく卑しいものだとの通念から描かれたと思われる恐ろしげな顔もある。生涯京都の御所に居て、異国人を見たこともなく、ただ女官たちの話を聞いて育てば、夷人は禽獣の如しと思い込む外人嫌いになったのだろうか。

孝明天皇のこんな外人嫌いが、幕府の結ぼうとする通商条約を心底嫌い、許可しようとする関白に対抗し、岩倉具視や久我建道と密かに図り、幕府の条約締結を許可させないように多数の公家を動員したのだ。使命感にもとずく外人嫌いが、日本を変え始めたともいえよう。

2009年2月26日木曜日

癇癪持ちのタウンゼント・ハリス


タウンゼント・ハリスはアメリカ総領事として下田に来て、オランダ語通訳のヒュースケンと2人、下田の玉泉寺に滞在した。

ハ リスは地球の裏側の東洋の片隅に1人で来て、はじめての通商条約を締結したのだから、それだけ個性の強い頑固な人物だったようだ。下田奉行と通貨の交換比 率や、通商条約交渉に向けいろいろやり取りをしたが、その過程で何度も癇癪を爆発させ、日本側を困らせた。勿論下田奉行も一々幕閣の指示を得ながら交渉 し、交渉の全権を持っているといいながら程遠い交渉態度だったから、ハリスから言わせれば、その遅々として進まない交渉は「頭に来る」ほどのものだったよ うだ。

ある時は、ハリスのあまりの激昂ぶりに、早めに交渉を打ち切った日本側の交渉記録が残っているし、かなり手を焼いた時もあったようだ。

そ んな中の圧巻は、下田奉行・中村出羽守との交渉中にハリスの前に青銅の火入れに長煙管を添えて出してあったが、ハリスは「もう交渉は止めた」と怒り心頭に 発し、「この馬鹿野郎」と一声大声で叫ぶと目の前の火入れを取って日本側へ放り投げた。火入れは出羽守の背後の襖に当たりそこに落ちたが、雪のように舞い 上がった灰がそこに居た出羽守から組頭や目付け一同の頭上に降りかかった。この無礼な態度に怒った日本側の何人かは刀に手をかけ、今にも抜刀し切りかかる有様になった。

一方のハリスは、そこにそのまま大の字にひっくり返って灰神楽を見ていたが、出羽守は必死に家来が抜刀するのを押えたという。若しそこでハリスに切りかかっていたら、そのまま戦争になったろうし、今の日本もかなり変わっていたことだろう。

これはその場にお茶酌みとして居た、当時足軽で後に写真家として有名になった下岡蓮杖の回顧録だが、ハリスはかなり特異な人物だったようだ。

2009年2月4日水曜日

ペリー提督の電信機


情報伝達に革新的発展を経た現代社会は、いろいろな出来事がTVやインターネットで世界中に瞬時に伝わる。電気的にこの情報を遠隔地まで送ることに成功したアメリカ人は、「モールス符号」としてその名を今にとどめる、サミュエル・モールスが造ったモールス電信機とモールス符号だが、1840年6月20日付けの特許(#1647)になっている。その4年後にワシントンとボルチモア間の約60kmの通信に成功した。ちなみに江戸城から横浜まで直線で約30kmだから、この倍の距離で通信したわけだ。

アメリカで大陸横断の電気通信が完成したのは、初めての実験成功から7年目の1861年にニューヨークとサンフランシスコ間だった。これは1869年の大陸横断鉄道より8年早い。

ペリー提督は1854年、こんな通信技術を日本に持ってきて、横浜の約1.6km離れた2地点間に敷設しデモンストレーションを行った。この時の受信機は電磁石の動きで紙テープに凹凸を付ける方式で、150年後の今でも国の重要文化財としてNTTの逓信総合博物館(東京都千代田区大手町)にある。「逓信」はもうあまり聞かない言葉だが、明治政府の造語のようで、まだこんな古臭い言葉をつけた施設があるのも興味深い。

1854年当時の日本は、遠隔地への緊急伝達に飛脚を使っていたが、江戸から京都まで東海道の約500km間を早いものでも5、6日位はかかったようだから、
この電信機の実稼動のデモンストレーションを見て、その革新性はただ目を見張るものだったはずだ。残念ながら当時、この電信機技術は蓄電池の原理や技術も含め、どの程度実用的な習得ができたか定かではない。

その頃、幕府の通達などは町々に高札を出して伝えるのが一般的だったが、ペリー提督が箱館に行った時は、緊急連絡あるいは緊急警報的に、当時の夜回りが使った金棒を引いて市民に知らせた。金棒というのは鉄の棒の先に複数の金輪を付けてジャラジャラ音が出るようにしたものだが、これを鳴らしながら町々を触れて回ったことが記録に残っている(亜墨利加一条写)。

モールス電信機は当時、今日のTVやインターネット以上に難解で、オランダの文献を研究していた一部の日本人は除き、一般には一種の魔法のような感じだったかもしれない。

2009年1月14日水曜日

誤解される香山栄左衛門


香山栄左衛門は、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀にやってきた時、2番目に艦隊にやって来た浦賀奉行所派遣の交渉担当役人、すなわち組与力だった。そしてその後も引き続き、浦賀奉行・戸田伊豆守の信頼を一身に受け、アメリカ側からも信頼され、ずっとペリー艦隊との交渉役として活躍した。

戸田伊豆守の指示により、何人も居る組与力や支配組頭さえ差し置いて、ほとんどの場合一人で交渉を行ったから、当時目付が必ず同行する習慣からして全く異常なやり方だ。これに付き戸田伊豆守は、香山しか信頼できる人物が居なかったと言っているが、勿論通詞は同行した。それはオランダ通詞の堀達之助だったが、ほとんどの場合通詞の立石得十郎も一緒だった。後に長崎から森山栄之助が派遣され、和親条約交渉の通詞は森山が担当した。


昭洞香山君碑、浦賀西叶神社
こんな風にペリー艦隊と関わったがため、香山は全く身に覚えのない2つの大きな誤解を受けた人物だ。1つは当時の仲間から、1つは後世の歴史家や作家からである。

1番目について、今は東京大学歴史編纂所に保管される香山の「上申書」を読むと、香山が他の組与力では出来なかったアメリカとの交渉を、何回もやすやすと成功させたためだったろう。仲間からアメリカとの間に何か良からぬ関係があると疑われ、禁制の通商をしていると疑われ、あまりの悪い噂にアメリカとの交渉から身を引かざるを得なくなった。

2番目は、ペリー提督やその報告書を編纂したフランシス・ホークスにも責任があるが、「浦賀のガバナー」の香山栄左衛門が軍艦に乗り込んで来たとその報告書に記述している。この「ガバナー」という表現が問題なのだが、しかし香山の上申書や日本側の記録「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」には、「浦賀の応接長官」であると名乗ったと記録されている。この中には幾つも会話形式の記録もあるが、記録をとる目付は居なくとも、堀か立石が記録を取ったのだろう。

当時、堀達之助が「応接長官」をどんなオランダ語に訳したか、今では全く分からない。しかし、それを聞いたアメリカのオランダ語通詞・ポートマンが、ガバナーと理解したか、あるいはホークスが使ったのだろう。英語のその報告書を見た後世の日本人がガバナーを奉行と訳し、奉行と名乗ってアメリカをだました香山栄左衛門という通説まで出来てしまった。史料を確認せず、云ってみれば面白く訳してしまった濡れ衣だ。

当時、ペリー提督は日本と戦争はしないというアメリカ政府の方針を熟知していたが、日本側の対応いかんでは大砲の2、3発は飛び出す可能性もあったから、香山の応接と戸田伊豆守の対応は適切であったと言える。こんな香山が歴史的にも誤解されたままである事は、事実を知るものにとって残念である。

(1-14-2009)

はじめまして


趣味として、日米の歴史を調べその出来事のあった場所を探し、ぜひ行って見たい。こんな漠然とした願望から出発し、調べて納得した内容を記述した。これが「ペリーを訪ねて」を書き、「日米交流ウェブサイト」を造るきっかけだった。

これはまだ際限もなく続く予定だが、調べては書くというプロセスを経るので、ウェブサイト更新インターバルは長い。一応史実の進展に従い書いているつもりだから、散漫な話題を「日米交流ウェブサイト」に記述することも出来ない。が、こまごまとした話題はもっとあるし、ぜひ伝えたい。こんな経過からこのブログを始めることにした。従って話題は散漫で、いろんな話がひょっこり飛び出すという具合になるだろう。

歴史の話題は今後とも中心になるが、今日ひょっこり飛び出す話題は、ウェブサイトの設計についてだ。「日米交流ウェブサイト」を造る時、
htmlコードで直接書いていて、当然実力以上の事は出来ないが、おおむね意図した通りに出来ていると自己満足している。しかし、一つだけ長い間の不安があった。それはデザインの視覚上、使用文字をあまり大きくしなかった。はたしてこれで読者は満足か?と気にかかっていたわけだ。

ずっとこのウェブサイトを見に来てくれる読者のPCを見ると、そのモニター・サイズは
1024x768が半分、1280x8004分の1、すなわちラップトップが4分の3を占めることが分かった。やはりこれでは文字がちょっと小さすぎるかな。何とか読者の好みで拡大、縮小する方法はないか・・・と悩んでいたのだ。

当然ほとんどのブラウザーはこれが出来るが、残念ながら読者の90%が使用するマイクロソフトのインターネット・エクスプローラーはこの能力が誠に貧弱で、ヴァージョン・7であってもhtmlコードで指定された文字サイズは変えられない。しかし、その機能を知っている人はそれなりに使っているだろうが、筆者の自分のページの中で、必要に応じ文字の拡大や縮小をやって貰いたかったのだ。

そんな願望が遂に実現できた。文句なく嬉しい。読者に、ぜひページ右上の”+”、”-”、”
R”を使って文字の大きさを読みやすいものに調整して読んでもらえればなお嬉しい。

(1-13-2009)