2009年1月14日水曜日

誤解される香山栄左衛門


香山栄左衛門は、ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀にやってきた時、2番目に艦隊にやって来た浦賀奉行所派遣の交渉担当役人、すなわち組与力だった。そしてその後も引き続き、浦賀奉行・戸田伊豆守の信頼を一身に受け、アメリカ側からも信頼され、ずっとペリー艦隊との交渉役として活躍した。

戸田伊豆守の指示により、何人も居る組与力や支配組頭さえ差し置いて、ほとんどの場合一人で交渉を行ったから、当時目付が必ず同行する習慣からして全く異常なやり方だ。これに付き戸田伊豆守は、香山しか信頼できる人物が居なかったと言っているが、勿論通詞は同行した。それはオランダ通詞の堀達之助だったが、ほとんどの場合通詞の立石得十郎も一緒だった。後に長崎から森山栄之助が派遣され、和親条約交渉の通詞は森山が担当した。


昭洞香山君碑、浦賀西叶神社
こんな風にペリー艦隊と関わったがため、香山は全く身に覚えのない2つの大きな誤解を受けた人物だ。1つは当時の仲間から、1つは後世の歴史家や作家からである。

1番目について、今は東京大学歴史編纂所に保管される香山の「上申書」を読むと、香山が他の組与力では出来なかったアメリカとの交渉を、何回もやすやすと成功させたためだったろう。仲間からアメリカとの間に何か良からぬ関係があると疑われ、禁制の通商をしていると疑われ、あまりの悪い噂にアメリカとの交渉から身を引かざるを得なくなった。

2番目は、ペリー提督やその報告書を編纂したフランシス・ホークスにも責任があるが、「浦賀のガバナー」の香山栄左衛門が軍艦に乗り込んで来たとその報告書に記述している。この「ガバナー」という表現が問題なのだが、しかし香山の上申書や日本側の記録「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」には、「浦賀の応接長官」であると名乗ったと記録されている。この中には幾つも会話形式の記録もあるが、記録をとる目付は居なくとも、堀か立石が記録を取ったのだろう。

当時、堀達之助が「応接長官」をどんなオランダ語に訳したか、今では全く分からない。しかし、それを聞いたアメリカのオランダ語通詞・ポートマンが、ガバナーと理解したか、あるいはホークスが使ったのだろう。英語のその報告書を見た後世の日本人がガバナーを奉行と訳し、奉行と名乗ってアメリカをだました香山栄左衛門という通説まで出来てしまった。史料を確認せず、云ってみれば面白く訳してしまった濡れ衣だ。

当時、ペリー提督は日本と戦争はしないというアメリカ政府の方針を熟知していたが、日本側の対応いかんでは大砲の2、3発は飛び出す可能性もあったから、香山の応接と戸田伊豆守の対応は適切であったと言える。こんな香山が歴史的にも誤解されたままである事は、事実を知るものにとって残念である。

(1-14-2009)

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