2009年2月26日木曜日

癇癪持ちのタウンゼント・ハリス


タウンゼント・ハリスはアメリカ総領事として下田に来て、オランダ語通訳のヒュースケンと2人、下田の玉泉寺に滞在した。

ハ リスは地球の裏側の東洋の片隅に1人で来て、はじめての通商条約を締結したのだから、それだけ個性の強い頑固な人物だったようだ。下田奉行と通貨の交換比 率や、通商条約交渉に向けいろいろやり取りをしたが、その過程で何度も癇癪を爆発させ、日本側を困らせた。勿論下田奉行も一々幕閣の指示を得ながら交渉 し、交渉の全権を持っているといいながら程遠い交渉態度だったから、ハリスから言わせれば、その遅々として進まない交渉は「頭に来る」ほどのものだったよ うだ。

ある時は、ハリスのあまりの激昂ぶりに、早めに交渉を打ち切った日本側の交渉記録が残っているし、かなり手を焼いた時もあったようだ。

そ んな中の圧巻は、下田奉行・中村出羽守との交渉中にハリスの前に青銅の火入れに長煙管を添えて出してあったが、ハリスは「もう交渉は止めた」と怒り心頭に 発し、「この馬鹿野郎」と一声大声で叫ぶと目の前の火入れを取って日本側へ放り投げた。火入れは出羽守の背後の襖に当たりそこに落ちたが、雪のように舞い 上がった灰がそこに居た出羽守から組頭や目付け一同の頭上に降りかかった。この無礼な態度に怒った日本側の何人かは刀に手をかけ、今にも抜刀し切りかかる有様になった。

一方のハリスは、そこにそのまま大の字にひっくり返って灰神楽を見ていたが、出羽守は必死に家来が抜刀するのを押えたという。若しそこでハリスに切りかかっていたら、そのまま戦争になったろうし、今の日本もかなり変わっていたことだろう。

これはその場にお茶酌みとして居た、当時足軽で後に写真家として有名になった下岡蓮杖の回顧録だが、ハリスはかなり特異な人物だったようだ。

2009年2月4日水曜日

ペリー提督の電信機


情報伝達に革新的発展を経た現代社会は、いろいろな出来事がTVやインターネットで世界中に瞬時に伝わる。電気的にこの情報を遠隔地まで送ることに成功したアメリカ人は、「モールス符号」としてその名を今にとどめる、サミュエル・モールスが造ったモールス電信機とモールス符号だが、1840年6月20日付けの特許(#1647)になっている。その4年後にワシントンとボルチモア間の約60kmの通信に成功した。ちなみに江戸城から横浜まで直線で約30kmだから、この倍の距離で通信したわけだ。

アメリカで大陸横断の電気通信が完成したのは、初めての実験成功から7年目の1861年にニューヨークとサンフランシスコ間だった。これは1869年の大陸横断鉄道より8年早い。

ペリー提督は1854年、こんな通信技術を日本に持ってきて、横浜の約1.6km離れた2地点間に敷設しデモンストレーションを行った。この時の受信機は電磁石の動きで紙テープに凹凸を付ける方式で、150年後の今でも国の重要文化財としてNTTの逓信総合博物館(東京都千代田区大手町)にある。「逓信」はもうあまり聞かない言葉だが、明治政府の造語のようで、まだこんな古臭い言葉をつけた施設があるのも興味深い。

1854年当時の日本は、遠隔地への緊急伝達に飛脚を使っていたが、江戸から京都まで東海道の約500km間を早いものでも5、6日位はかかったようだから、
この電信機の実稼動のデモンストレーションを見て、その革新性はただ目を見張るものだったはずだ。残念ながら当時、この電信機技術は蓄電池の原理や技術も含め、どの程度実用的な習得ができたか定かではない。

その頃、幕府の通達などは町々に高札を出して伝えるのが一般的だったが、ペリー提督が箱館に行った時は、緊急連絡あるいは緊急警報的に、当時の夜回りが使った金棒を引いて市民に知らせた。金棒というのは鉄の棒の先に複数の金輪を付けてジャラジャラ音が出るようにしたものだが、これを鳴らしながら町々を触れて回ったことが記録に残っている(亜墨利加一条写)。

モールス電信機は当時、今日のTVやインターネット以上に難解で、オランダの文献を研究していた一部の日本人は除き、一般には一種の魔法のような感じだったかもしれない。